中四国エイズセンター

中四国ブロックのエイズケアの包括組織

中四国エイズセンターについて

ABOUT OUR CENTER

エイズセンターの成り立ち

広島大学病院を中心とした
HIV感染症の歴史

1
HIVが見つかる前の時代

広島大学医学部の小児科は、小児血液学をテーマとしてきました。また同じ病院で働いている原爆放射能医学研究所(原医研と略)の内科部門も、血液内科を中心とした診療と研究を行ってきました。1983年に小児科の研究チームは、当時ようやく研究で使われ始めたモノクローナル抗体を使ったリンパ球の検査で、血友病の子供たちに免疫異常の徴候がみられることに気がつきました。血友病患者にエイズが発生したという情報は1983年までに伝えられましたが、まさか治療薬が原因だとは思い至らなかった時代です。

当時血友病治療に使われたのは、外国で作られた凝固因子製剤、あるいは輸入血漿を原料として国内製造した凝固因子製剤でした。日本人の献血は、日本人の病気の治療に役立っていなかったのです。多くの患者に非A非B型と呼ばれた肝炎が発生していました。加熱凝固因子製剤の治験が始まったのは1984年です。肝炎の伝播を予防するためと言われましたが、当時はHIVもHCVも検査法はなかったのです。エイズの原因がウイルスであり、血漿を加熱することによって死滅するという最初の報告は1984年の9月のことでした。言いようのない不安に包まれました。

2
ウイルス抗体検査の時代

エイズの原因がウイルス(最初はHTLV-III、後にHIVと命名)とわかり、抗体検査がアメリカで採用されたのは1985年3月のことでした。1985年の秋に調べた成人の血友病患者のリンパ節の病理組織像は異型的な濾胞過形成を示していました。免疫能の低下が最もひどかった血友病の小児は、たびたび気管支炎や肺炎を繰り返すようになり、「この子はエイズなのだろう」と思われるようになりました。医師たちがはっきりエイズを意識するようになった頃です。

日本で抗体検査が保険認可になったのは、1986年4月のことでした。実施してみたら、小児科と内科で診ていた血友病患者の40%が陽性でした。「あぁやっぱり!」、「何ということだ!」という思いがありました。“陽性”にはどういう意味があるのか、最初はわかりませんでした。しかし結果は成人患者では本人に、小児患者では両親に伝えられました。陽性者の何人かは父親になっていましたが、パートナーの感染がなかったのは不幸中の幸いでした。

3
発病者が増えチームによるケアが始まる

1987年の夏、最初の抗HIV薬であるAZT(レトロビル)が市販認可となりましたが、その秋に最初の小児が死亡しました。13歳でした。12月には成人の血友病患者でカリニ肺炎が発生しました。確定診断後は、当時市販されていなかったペンタミジンを入手して治療に成功しました。

1988年、大阪地裁と東京地裁を舞台にいわゆる“薬害HIV裁判”が始まり、多くの患者が原告に加わってゆきました。この年、50代の外国帰りの男性感染者が受診しました。ある国立病院で「あなたは陽性です。発病したらいらっしゃい。」と言われて途方に暮れていた人です。広島も性感染症としてのエイズの時代に入りました。厚生省とWHOはこの年の夏、東京でエイズとカウンセリングについてのワークショップを開きました。小児科は厚生省のエイズ研究班(主任研究者:山田兼雄聖マリアンナ医大教授)の中国ブロック代表をひきうけ、内科と一緒に調査活動などを開始しました。

1989年3月、エイズ予防財団の山形操六専務理事が広大病院を訪問され、財団と病院との間でカウンセリング事業の委託契約が結ばれました。心理カウンセラーによる面接が増え、医師たちとの連携が急速に始まりました。6月、カンジダ食道炎の診断を受けた30代の外国帰りの男性が、広大病院に転院して来ました。

1991年5月、アメリカからエイズのメモリアルキルト展が日本中を巡りました。この時の広島実行委員会のメンバーたちが、その後「広島エイズダイアル」というNGOを結成することになりました。血友病の患者会では主要なメンバーが倒れてゆきました。HIV陽性・陰性で離れることなく、お互いの支援ネットワークを作っていった時代です。ようやく2番目の抗HIV薬、ddI(ヴァイデックス)が認可となりました。

4
地域のエイズケアの
核になる

1994年の夏、第10回国際エイズ会議が横浜で開かれました。そのあと広大病院長は「エイズ拠点病院として病院名公表」を表明しスタッフを励ましました。

1996年3月、いわゆる“薬害HIV裁判”の和解が成立し、原告団は厚生省にいくつかの要求を提出しました。遺族に関する要求のように現在も交渉途中のものもありますが、すでに実現したもの、あるいは実現しつつあるものがあります。医療に関する要求ではエイズ治療研究・開発センター、地方ブロック拠点病院、そして都道府県の拠点病院という体制が整えられました。治療薬では逆転写酵素阻害剤やプロテアーゼ阻害剤が雪崩うつように認可され、現在20種類 近い薬が入手可能になりました。HIV感染症は致死的な病気から、調節をしながら社会生活を送る慢性の病気へと変わっていきました。この時期に合わせた心理・社会的なニーズに対して、1998年には「身体障害者としての認定と福祉制度」が提供され、自治体による派遣カウン セラー制度が始まりました。

1997年4月からエイズ治療のための中国・四国地方ブロック拠点病院として、広島大学病院と広島市民病院、県立広島病院の3病院が連携することになりました。この時点で3病院は約50名のHIV感染者を診ていました が、2004年現在ではおよそ100名になり、2009年にはおよそ200名になりました。

厚生労働省のエイズ対策事業として配分される広島県からの受託研究事業があります。また、厚労省の科学研究費補助事業を通じた研究予算が配分されています。これらを元に、次の5つのことを実施しています。

  1. 広大病院では医療面・社会/心理面を包括したケアを提供します。
  2. 紹介患者の診療や訪問診療を通じてセカンドオピニオンの役割を果たします。
  3. 研修会・講演会・講義などを通じて医療者/医療系学生に教育・訓練を提供します。
  4. インターネットや印刷物を通してエイズ関連情報を提供します。
  5. エイズ医療に役立つ臨床研究や基礎研究を行います。

3病院は人的な交流もあり、多職種のスタッフが2ヶ月に1度で3病院定例会議を開いています。 「中四国エイズセンター」は、具体的な場所を示すものではなく、協力して働くスタッフの"自称"です。このような連携がエイズに限らず多くの疾患のケアのモデルになることを願っています。

スマートフォン版PC版